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腎臓内科医の診療日記 No.57

先日の旅先で泊まった古いホテルには、大浴場がついていなかった。ホテルの部屋は狭くていいから、雨風をしのいで寝られるベッドがあって、フロントの従業員が孤独な中年を笑顔で迎えてくれれば、基本的に十分なのだけれど、オマケで大浴場があって、朝食バイキングが食べられると、ちょっと嬉しい。大浴場は、比較的新しいホテルの最上階などに併設されていることがあって、そういうホテルは宿泊料金も若干お高めになる。宿泊費用を職場から出してもらえる学会出張なら、遠慮せずに限度額ギリの大浴場、朝食バイキング付きホテルを予約するが、自腹で宿泊費用を支払う場合は、料金が半分以下の安宿で済ませてしまうことも多い。そんな学生感覚を引き摺ったままの貧乏旅行でも、非日常感や旅の風情といったものを、どうしたらより楽しめるだろうか、というのが最近の旅のテーマである。女性が喜びそうなシャレオツ(=おしゃれ)感や高級感は、コスパ的にもコンセプト的にも不要なのだが、閉塞感のあるユニットバスでは、孤独な中年男が溜め込んだ日々の疲れは流しきれない。自分も少し贅沢になってきたかな、と思いながら、スマートフォンで周辺を検索してみると、近くに気になる物件がみつかった。

夕方になって駅前のホテルを出ると、周囲は少し薄暗くなりかけていた。スマホの地図アプリをみながら、昭和レトロな懐かしい雰囲気の漂う路地を、物件に向かって歩いていく。この街は、江戸時代には年貢米の集積地として発展し、戦争の時も空襲を免れたおかげで、古い建物がたくさん残っているそうだ。「美観地区」と名付けられた有名な観光スポットは、ここから少し行ったところにある。しばらくアプリの案内どおりに歩いていくと、周囲よりも長い年月をかけて熟成されたであろう、かなり渋い建物が現れた。建物の裏手には煙突がそびえ、その建物の素性を静かに物語っている。後で調べてみると、そこは大正時代から営業が続いているそうで、ノスタルジーを求めて県外から訪れる客も多いという。建物の薄い黄土色の壁は所々くすんでひび割れ、木枠の窓格子には断熱性の無い薄っぺらいガラスがはめ込まれている。道に面した2か所の入り口には、男湯、女湯と書かれたのれんが掛けられ、軒下の葉巻型の薄暗い蛍光灯が、入り口付近の狭い範囲を寂しく照らしている。そうです、私が求めているのはこれです。

男湯の入り口から建物の中に入ると、すぐ脇に期待どおりの番台があって、少し上からよく熟成された年齢の女性の番台さんが、優しい笑顔で出迎えてくれた。番台からは、男性の脱衣所と女性の脱衣所の両方が見渡せる構造になっていて、両側から代金を受け取ることが出来る。入浴料は420円と良心的な価格だったが、電子マネーでの支払いに対応していたのには驚いた。私は、使い慣れた電子マネーでピッと支払いを済ませ、下駄箱に靴を入れて、脱衣所で服を脱いだ。ふと、昔のエロガキやエロジジイは、銭湯の番台で料金を支払う時に、わざと釣銭が多くなるように大きなお札で支払って、番台に座ったお婆さんが釣銭を数えている間、素知らぬ顔で反対側を覗いていたという話を思い出し、シマッタと後悔した。古き良き文化は、安っぽい便利さと引き換えに失われてしまう。次に銭湯に来るときは現金のお札でちゃんと支払おう、と決意を新たにして、タイル張りの洗い場で体を洗っていると、壁の向こうから話し声や笑い声が聞こえてきた。声質や話し方から、入り口の番台の女性と同じくらい熟成された方たちのようで、若い異性の気配はまったく感じられなかった。考えてみれば、こーゆーシブい銭湯に、若くてシャレオツなネーちゃんがわざわざ来るだろうか。俺は何を妄想していたのだろう。銭湯の支払いは、これからも電子マネーで済ませておけば良いだろうと考え直し、熟成された先客のいる石造りの渋い浴槽に、疲れた体をゆっくり肩まで沈めていくと、ジンワリと体の芯から温まってくるのが感じられた。