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腎臓内科医の診療日記㉑

今年も1年を振り返る時期になった。年齢を重ねると、日常の出来事に感動することも驚くことも減って、月日が飛ぶように過ぎていく。たぶん気が付いた時には死んでいる。お前はすでに死んでいる、というやつである。意外と多くの人が、実はこんな感じの人生を送っていると思うのは、気のせいだろうか。最近は以前に比べて、激しい感動こそ少なくなったが、それなりに楽しく穏やかに過ごせる時間が長くなったのは、ある意味ありがたい話でもある。

一方、私がどうでも良いと思っていることでも、大騒ぎして走り回る人は結構いる。大事件がいつも身の回りに起きているようで、「些細な」事を「大変な」事として怒ったり悲しんだり、神経をすり減らしている。何にコダワルかという話だが、ヘンな執着こそ苦しみの始まりなので、さっさと捨てましょう、と2600年前にブッダが教えている。そして、執着の生じる原因やその捨て方の具体的な方法まで、親切にきちんと伝えている。ブッダは歴史上の偉人として習うだけで、最近は宗教に対して距離を置く人も多いので、どんな事を伝えているのか知らない人も多いと思うが、ブッダは優秀なカウンセラーである。別に私は永平寺で修行もしていないし、怪しい道場に通って秘密の計画を練っている事もない。出版されている書物を読んで実践することによって、実感できる程度の事である。とにかく、自分の価値観や意見が正しい、というのが自分の思い込みである事に気付いて、他人を過剰に批判することを止め、まったく異なる価値観や考え方の存在を受け容れられるかどうかは、幸せに生きていく上で結構重要なことだと思う。そういう意味では、この私の考えも単なる思い込みなので、何かにコダワって、争い、苦しみながら生きていく姿勢も、同じように認めましょう、ということになる。言葉遊びになってしまったが、どちらを選ぶかは自由である。私はできれば穏やかに生きていきたい。

ところで話は少し変わるが、今年に入って管理職になった。とりあえず気が付くところで、こりゃオカシイ、制度をこうしたら仕事が効率的になったり、余計なトラブルは減るんじゃないのと思うところから、変えられるところは変えていった。そういった中、さまざまな意見が寄せられた。ちょっとあの人たちズルイんじゃないの、なんで私がこの仕事をしなくちゃいけないの、こんな意味のない業務は無くすべきだ、これはブチョーの仕事でしょ、ぎゃーぎゃーぎゃー。様々な価値観、自分の利益を守ろうとする主張との対立である。私は管理職として、自身の判断基準の妥当性を示しながら、抵抗勢力を抑え込む日々がはじまった。ブッダへの道は、なかなか険しい。

組織の全体性や将来性を見据えて、優先する価値観を選び、どのあたりの不公平さを許容するかを決め、業務を配分していくのが管理者である。小さな組織では、ある程度の話し合いはするが、構成員が未熟な事も多く、スピード感も要求されるので、多くはリーダーの直感的センスで物事が決まっていく。徹底的に議論している時間も無いし、その場の話し合いで相手を黙らせたという理由で、意見をそのまま採用する訳にはいかない。口だけ達者で我儘なワカゾーの言うなりになる訳にはいかない。言葉遊びに、それほど価値があるとは思わない。必要に応じて、問答無用のギョーム命令である。一方で、管理者のセンスがまずかった場合は、そのうち船は沈む。理不尽なギョーム命令が重なれば、構成員は組織を去っていくし、力を持っていれば下剋上である。香港の暴動からも、いろいろ考えさせられた。どこの国でも、歴史の流れの中核になっているのは政治家の殺し合いである。私はなるべく殺されたくない。できればジョイ様にひっかかれる程度で済ませたい。

先日、とあるジョイ様が、検食(病院の食事を食べて、感想を書く仕事)をする私をみて、それ、院長の仕事ですよね~と言った。私にとっては雑用だが、ジョイ様にとっては責任重大な仕事のようだ。素敵なジョイ様が味方になってくれるのは嬉しいが、院長もタイヘンだな、と思った。